2007年11月15日

歓迎会 炒め物、ヒラヤチのレシピ

R0010066.JPG

10月29日夕方、久しぶりに訪れた銀天街で歓迎会を開いて頂いた。商店街で居酒屋をしているノーリーさんは「沖縄料理を作ってあげようね。ヘチマとか食べた事ある?」といいながら、腕を振るっていくつもお皿を出してくれた。
そんな中、飲み会メンバーの伊波さんが持参してくれた「鶏レバーと砂肝とニラの炒め物」が美味しかった。詳しくレシピを教えてもらったので下記にまとめてみた。一緒に滞在した1歳8ヶ月の息子にも大好評で、皆さんが心配するほどモリモリ食べていた。


R0010052.JPG


●鶏レバーと砂肝とニラの炒め物

1.鶏レバー、砂肝を洗い、一口大に切る。
*鶏レバーの真ん中の所は半分に切って血を洗い 流すと臭みが消えてよい。後は「臭みも旨味」下ごしらえはしない。

2.鍋にお湯を沸騰させ、砂肝を入れ中火で煮る。途中で鶏レバーを入れて、砂肝が柔らかくなったら火を止める。全部で約20分。

3.鍋から砂肝、鶏レバーと取り出し、適当に切ったニラと炒める。
*ニラはしんなりしたものの方が炒めた時に水分が出なくて良い。新  鮮なものは日干して水分を飛ばす。

4.塩こしょうで味付けをする。
*レバーから色が出るので、醤油は使わない。


*食べる人が若くてお腹いっぱい食べたい時には、これに鶏の皮を加えると美味しい。

(*は伊波さんのポイントアドバイス)



伊波さんは時々自分で料理をするらしいが、以前「ヒラヤチ」の作り方を教えてもらったことがある。ヒラヤチ(平焼き)は小麦を水で解いたタネにニラを加えて、フライパンへ薄くのばして焼いた韓国のチジミにそっくりな食べ物だ。今は酒のつまみ、昔は子供達の定番おやつだったようだ。

料理を作ってくれた伊波さんは、「子供の頃、お腹が空いたら自分で作ったよ。大人達は畑仕事していたから、庭に生えているニラ採ってきて来てメリケン粉を水に解いてさ。」と話す。メリケンコというのは小麦粉のこと。(ア)メリケン粉とは、米国占領下にあった沖縄では小麦粉は安価に手に入りやすく、そんな中出来た造語だ。
「今はそれにトゥーナー(ツナ缶)や卵を入れてもっと美味しく作れるけど、当時はみんなお腹空かしていたからそれでも喜んで食べたさ」と付け加えて話してくれた。

「食とアートの街・銀天街」での第一夜は美味しい手料理と、懐かしい人達との思い出話に花が咲いた。
posted by IKEYA at 00:51| Comment(20) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月08日

再来

3年ぶりに訪れた銀天街。薄暗いアーケードの下を歩く。商店街の空気が暗い緑色をしていたのは、1つおきに灯された照明のせいだろうか。それは11月といってもまだジリジリ暑い、沖縄の太陽を浴びた外界とまったく別の色、温度だった。

R0010206.JPG

シャッター通りを抜けて幅の広いメイン通りに差し掛かっとき、1人の男性が2階の窓枠に腰掛けて通りを眺めていた。顔はむくみ、伸びた髪や髭は白く、目は空ろだった。その男性は間違いなくお菓子屋さんの盛雄さんだった。わたしは期待を込めて「盛雄さん,,,」と声に出してみたが、ジーとこちらを向いた目は悲しく、表情は動かなかった。わたしは、それ以上食い下がることが出来ずその場を立ち去ってしまった。メイン通りをトボトボと歩きながら、振り返ってももう窓には誰もいないような気がして、「さっき見たものは幻だったのかもしれない」と思い始めた。抜け殻のような身体を見て怖かったからだ。

銀天街で生活をしている友人が、「みんなが1年ずつ年をとっているとしたら、盛雄さんだけ5年分年をとっているみたい。」と盛雄さんの身体の調子が悪くなってからのことを心配そうに話しながらつぶやいた一言が、私が再会した盛雄さんの姿と重なり合って頭から離れない。



50代の盛雄さんはお菓子職人だ。琉球王朝で食べられていた丸い大きな「ちんすこう」(今お土産で売られているものとは形も違う)や、結納や結婚式の時に縁起物として出される色鮮やかな「松風」など、本土の私にとって珍しい昔ながらのお菓子を作れる県内でも数少ない職人さんだ。
盛雄さんや商店街近郊に住むおじさん達と、東京からこの銀天街でアートプジェクトを行いにやってきた私たち5人はよく一緒に泡盛を飲んだ。自家製古酒を飲みながら盛雄さんは大きな声で、「あんた達はもうちょっと太った方が良いよ〜。オレはぽっちゃりした人の方が好き。だから奥さんも大きなお尻をしていたよ。もう亡くなってしまったけど、今でも毎晩夢の中でエッチしているよ〜。」と少しセクハラまじりの話をしたり、若い頃の武勇伝や地元のバレーボールチームのコーチをしていたときの事や、絵や看板書きが得意で商店街のイベントのときはあれを作ったとかこれを書いたとか。とにかく明るく飲み会のムードメーカーであった。
けれども一番印象に残っているのは、盛雄さんが内地の人間に対して今でも憎しみが消えない事を知ったときだ。いつも通り楽しい話題に話が弾んでいたときだった。盛雄さんが若い頃内地に出稼ぎに行ったときに、「沖縄の人間」というだけで定食屋に入れなかったり、さまざまな差別にあったことを話し始めた。みるみる盛雄さんの顔つきが変わっていった。本土から来た私たちに食って掛かるように、盛雄さんの大きな顔が迫ってきて最後はウチナーグチになり、意味は分からないがただただその迫力に圧倒された事を覚えている。

わたしは沖縄に行く度に、明るく優しい沖縄の人達の裏側にあるこういったヤマトンチュウへの抗議を、いつ表に出てくるのかと臆病に恐れていた。知人がわたしのことを自虐的だと言ったけれども、自分が直接した事ではないにしろ、今まで沖縄戦やその後の差別について無関心に育ってこれた事を恥ずかしいと思った。なぜなら、彼ら沖縄の人は、本土復帰後の世代でも沖縄戦を生き延びた人々のこういった感情を小さい頃から耳にしてきただろうし、何より目の前に基地があって、この基地がある意味や経緯について知らざるおえなかったはずだからだ。その違いを、強く感じていた。

盛雄さんはその後何事もなかったかのように、わたしや友人が東京からやってくる度に「あんた達がそろそろ来ると思って」といつも笑顔で迎えてくれた。その目は親が我が子を見つめるような暖かいものだった。手先が器用で絵を描く事が上手な盛雄さんは東京で美術大学を出た若者達に寛容で、ロダンの「考える人」の話や画家の話をしているとき、とっても楽しそうだった。



盛雄さんと言う人の中に、沖縄の持つ、歴史や基地問題、そしてそれを忘れてしまう程の開けっ広げの明るさが全部凝縮して存在しているようだ。そのアンバランスさが愛おしい。

銀天街へ3年ぶりに訪れたこの日に、笑うにしても怒るにしてもあんなに動的だった盛雄さんの、止まってしまった時間を見ることになるとは思いもしなかった。
posted by IKEYA at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月16日

挿入歌

         
やかんに入った水が久米仙の入ったコップに豪快に交わる音。
              歌。
       話し言葉の間から聞こえる悲しい恋の歌。
           カチャ−シー。
               昔話。
             思い出話し。
        ここにいた 黒人兵と子供の自分の話。
     ここで商売を始めた親の 姿、戦時中の沖縄。
      仕事、修学のため、東京で暮らした時の話。
             オキナワの場所。
            やんばる自慢。
        学校帰りの 兄弟と遊ぶ子供達の声。
      伊計島の海辺に輪唱する海螢の音のない音。
      ヤマトンチュー  ナイッチャーと呼ぶ声。
          負けた闘牛のうめき声。
            止まらない笑い。
              罵倒。
              ナミダ。
posted by IKEYA at 21:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月07日

いちゃればちょーでー

「このままじゃいかん。あと二十年!あと二十年っ!!どうして、やっていくのっ!」

銀天街事務所で商店街内、近郊の人々とお酒を飲んでいると、昔の話に花がさき、誰にも止められない勢いでおのおのが話し始める。
この辺りが、歌あり、パフォーマンスありの一番面白いところなのだが、決してここでは終わらない。
話の内容がだんだん商店街の経営、運営の問題へ移行し、お互いに罵倒を浴びせあいながら、誰がどの意見を言っているのか、何について話していたのかひっくりかえってしまい、もう何がなんだか分らなくなると、誰かがまとめるか、帰るかして、その会が終わる。こうやってぶつかり合えるのは、みんなが昔からの付き合いでお互いのことを良く知っているからだ。
そして、みんなが立ち去った後、若き青年部長は事務所の鍵を閉めて、事務所から徒歩30秒の家族の眠る家に戻る。深夜2時。

R0010211.JPG

私が2年前から通っている沖縄市銀天街は、沖縄本島の調度真ん中に位置する沖縄市の商店街。那覇からは車で1時間半、那覇の次に人口が多い市だ。
また、「沖縄市」という名称も、県外の人間には馴染みがないかもしれない。
県内の人が今でも「コザ」と呼ぶその地域は、戦後まもなく基地建設ラッシュに伴い、帰る場所を失った収容所を出たばかりの人々によってつくられた街だ。戦後は米兵相手に商売をし、そして72年、本土復帰、かつての基地依存型の商売だけではなくて、県民のための商店街、町の顔として幾つもの商店街が栄えた。にぎやかだった。

posted by IKEYA at 22:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月28日

プロローグ

PICTO240.JPG


初めて訪れた銀天街
傾斜したメイン通りの下側に ぽつんと置かれたベンチに座って
向こう側から斜めに差し込む光と 大音量の有線の音に包まれて
これからどんなことが始まるのか 何も予想ができなかった
posted by IKEYA at 00:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。